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掛川まっこり・杜氏物語

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旅立ちの日

「愛する掛川を代表する名産品を作ろう!」
社内会議を重ねた結果、全く新しい事業、「日本初・純国産、日本人杜氏による本格まっこり」製造販売プロジェクトが始動しました。
そしてある日、私、男・山本浩己は社長から次の打診を受けました。
「山本。韓国に行って、杜氏になってこないか?」
…一週間、考えに考えました。
正直、それまで酒造などに関心があった訳ではありません。もちろん男ですから「職人」と言うのはかっこいいし、あこがれはありました。
しかし、いざ自分が何か職人となると訳が違う。
しかも日本の伝統技術ではなく、未知の世界へ。
でも一度だけの人生、
「前人未到の事柄をがむしゃらに、ただひたすらに頑張ってやってみた。それを成し遂げた。」
と言う貴重な経験はなかなかできるものではないと思い、意を決して韓国に渡る事にしました。

「じゃあな」

2010 年。社長と共に韓国へ。
まっこり作りの技術を学ぶにしても言葉がはなせなければどうにもなりません。
ちなみに韓国には何度か旅行した事はありますが、韓国語スキルはゼロ。
その後一週間、語学科のある大学に入学する手続きと、住まいの確保を社長と一緒に準備しました。
そして最終日、仁川(インチョン)空港に社長を送りにいきました。
そして、
「じゃあな」
と言う言葉とともに社長は去っていきました。
その後ろ姿を見ながら、
「俺、本当に大丈夫だろうか…」
と言う不安が立ちこめてきました。
でも、
「一人前のまっこり杜氏になるまでは絶対に日本に帰らない!!!! 」
と心に誓い、自宅に戻ろうとしました。




厳しい現実(生活編)

戻ろうとしました…。
でも、いざ自分の家に帰ろうと思って電車の乗り方がいきなり分からない。字も読めなければ、誰かに聞こうと思っても言葉が通じない。結局改札口の前で1 時間ぐらい行ったり来たりして、乗り方を学習し、見よう見まねでなんとか家に着きました。
家はソウル市内のワンルームのアパートを借りたのですが、都心に近い訳ではありませんでした。
それで、その後何度も近所でも迷子になる始末。今日食べるものを買うにも、まともに買い物すらできません。
恥ずかしながら男・34 歳で泣きました。
ホームシックです。
でもここで本来私が持っている負けず嫌いの性格が頭角を表しました。
「まずは韓国語が話せなければならない。何が何でも話せるようになってやる」
1 年半はとにかく語学取得に全身全霊を傾けました。
学校にも慣れて来た頃には、友達と飲みに行く事もありましたが、日本人とは行かず、韓国語しか使わない環境に自分を置くようにしました。
また社長が掛川青年会議所の理事長をしていた事もあり、姉妹都市で姉妹提携もあったソウル市城東(ソンドン)区青年会議所に赴いて会員として登録させてもらい、100%韓国人の中にとけ込みながら生の韓国語を学びました。
その甲斐もあって、1 年半で通常生活には困らず、専門知識を取得する事ができるくらいの語学力
を身につける事ができました。





厳しい現実(まっこり技術編)

語学研修と同時進行で、まっこりの技術を取得できるところがあるかどうかのアンテナを張っていました。
それと同時に、まっこりを作っている酒造所をいくつも回り、
「まっこり作りを教えてください! !
日本で美味しいまっこりを作りたいんです! !」
と限られた語学力の中で精一杯の熱い思いを伝え、頭を下げてお願いしました。
しかし、
「無理に決まってる」「教えるわけがない」とことごとく門前払い…。
たしかにその通りだと思いました。自国の伝統酒。それを外国人の私に教えて何になるんでしょうか。
「日本で国産マッコリを作りたいからその技術を学ばせてほしい」と言って簡単に教えてくれるはずがありません。
叩くドアの数と開かれない扉の前に途方に暮れました。
やっと言葉が話せるようになったのに…。
かすかな希望の光
韓国では、まっこりだけでなく幾つもの伝統酒があり、国内でフェスティバルがあります。
弓折れ矢尽きる…そんな心境でこのフェスティバルをぶらぶらとのぞいていました。
ふと目をあげると、まっこりの作り方を教えてくれる学校の案内が!!
私は急いで社長に連絡を取り、入学の手続きを取ってもらいました。
ちなみにこの学校での外国人の生徒は私が初めてでした。
さらに嬉しい事に、この学校は料理学校とセットになっており、韓国の伝統料理の作り方も学ぶ事ができました。
これはその後、どんな料理にまっこりが合うのかと言う研究の際に大いに参考になりました。

技術習得への道のり

この学校で(こうじ)に関する知識からはじめて、まっこりの製造方法を学びました。
「やっとまっこりについて勉強できる! !」
とにかくガツガツと、脇目も振らず勉強しました。
技術取得は決して楽ではありません。
日本だと密造になってしまう酒の自作も、韓国では法的規制が無いので宿題で
「自分なりのまっこりを作って来なさい」というものもありました。
それで私の家はまっこり研究所となりました。
ただ、夏場は本当にきつかった…。
クーラーをかけてしまうと温度が上がらず発酵しなくなってしまうので、夜は汗だくになりながら、しかもマッコリのにおいを嗅ぎながらそして気持ち悪くなりながら寝ると言う日々が続きました。
このような工程を重ね、学習は一般過程、専門課程と順調に進み、一応のまっこり製造を学ぶ事ができました。
しかしこれは教科書通りに作る方法を学んだに過ぎません。
日本と言う風土で、日本人の好みにあったまっこりの味を出せるような技術。
そして、それを量産できるような技術を身につけなければならないのです。
学校の先生は、韓国のまっこり作り名人の3 本の指に入る方だったので、自分の入校の目的と自分の熱い思いを伝えました。
最初、「何言ってるんだ、できる訳が無い」と一蹴されましたが、ここであきらめる訳に行きません。
自分のできる限りの願いを伝えたところ、最後に根負けした先生が、「ある人を紹介してやる」と言う事で、まっこりを研究している教授を紹介してもらった。
それが、運命的な出会いとなった韓国農村振興庁国立農業科学院の教授だったのです。






運を味方につけて

「頑張って何かの事を成し遂げよう」
そういう時に「運」が味方してくれる事はよくあります。
しかし黙っていてもそれはやってきません。
まっこりの技術取得に苦闘していた頃、社長が青年会議所の理事長をやっていましたが、そのとき「生涯学習都市」と言う事で、韓国のフェンソン郡から「姉妹都市提携を結びませんか」とのオファーが掛川市にありました。
それで、どういう所か掛川市長と社長が視察に行った所、そこがなんと伝統酒の製造の街である事が分かりました。
そこで郡主に
「掛川市から韓国に渡って、まっこりの勉強を本気でやっている日本人がいるんだが、大変苦労している。日本で本当に美味しいまっこり作りをする為に頑張っているが、なんとかならないだろうか…」
と、交渉してもらう事になりました。
郡主は「一晩考えさせてくれ」とおっしゃり、翌日、「姉妹都市としての架け橋の第一歩として、まっこり伝統製法の伝授」と言う話がまとまりました。
強い味方を手に入れたのです。
そして、株式会社オファードと韓国農村振興庁国立農業科学院も「共同研究」の分野で契約を結び、いよいよ国内での製造販売の準備ができる様になりました。
多くの失敗を重ねながら、私の技術もあがってきました。
そして卒業試験に提出したまっこりが一等賞を取りました。
可愛がってくださった先生方、支えてくださった多くの皆様方のおかげで無事卒業。
「日本で、皆さんが喜ぶおいしいまっこりを作ろう…」
帰国の路で私はそう決意しました。
2013 年。単身韓国に渡ってから3 年が経過していました。

製造販売に向けての苦闘

日本に戻ると製造販売の為の準備が次から次へと押し寄せました。
酒造許可、製造工場の設計、工事などなど…。
すべてが日本初ですので、製造工場機械も、日本酒製造用機械を作っている会社に依頼しアレンジし、どうしても無い場合は韓国から部品を取り寄せて完成させました。
そして、作ってみたら不味い…、徹底的に不味い。
味の安定性と言う課題に直面しました。
環境、製造量が異なる条件での味のブレはなかなか解消されませんでした。
これは美味い!
不味くて飲めない…
膨大な試作を重ね、ついに自社工場にて納得のいくおいしいまっこりをつくるレシピが完成しました。






わたしの夢

「愛する掛川を代表する名産品を作ろう!」
この願いを基に始まった杜氏への道のりでしたが、今やっとスタートラインに立てた気がしています。
私の夢は「掛川まっこり」が地元の皆さんに愛されるようになる事。
そして、静岡の皆さんに愛されるようになる事。
日本全国に掛川に「掛川まっこり」ありと知っていただく事。
そしてそう遠くないうちに海外でも知ってもらえようになる事。
その実現の為に、今日も本気でまっこりと向かいながら、丁寧に作業を行っています。
それが、「掛川まっこり」製造販売にいたるまで、あらゆる所で、協力、支援、援助をして下った国内外の大勢の方たちに対する恩返しだと私は思います。
どうぞ末永く「掛川まっこり」をよろしくお願い致します。

杜氏